アフリカ流「命の教室」
アフリカの儀式に欠かせないもの。
それは家畜を締めること。
家族の中だけで行われる儀式の場合、ヤギが一頭絞められることが多い。
ヤギはほかのどの家畜より儀式に意味をなす。
成人の儀式、結婚式、葬式など、大きな儀式になると牛がそれに加わる。
そして羊、鶏なども加わる。だが、羊はあまり儀式的な意味を持たず、来客に振る舞う料理に使われる。
今回の儀式で9頭の羊と1頭の牛、10羽の鶏と、1頭のヤギが屠られた。
オドワはヤギの肩の部分に、この日杖として与えられた木の葉を混ぜて食べたそう。
そう言えば私も「受け入れの儀式」の時、ヤギの肩の肉を食べた。
みんなが歌い踊っているこの庭の一角では羊が屠られていた。
屠っている少年の顔には笑顔がこぼれ、これからありつけるご馳走が待ちきれない様子。
隣に置かれた鍋に入れていく。
アフリカの儀式は命の教室だ。
私も旅をしている時に、幾度となく儀式に参加し家畜が屠られている姿を目にしてきた。
大切に大切に育てた家畜を屠る日。
子供も大人も大喜びなのだ。涙を流している人など一人としていない。
家畜が屠られる傍で子供たちが遊んでいる。
子供にさえこの屠殺という場面を隠すことない。
日本でいう「屠殺」は昔から「汚れた仕事」として扱われていた。
欧米文化が入る前、私たち日本人は陸の生き物を食べる文化がほとんどなかった。
陸の生き物の死骸は「汚れたもの」としてあまり好まれなかったのだ。
しかし欧米文化が入ってきて、日本人が挙って肉食に変わっていった。
しかし、「肉を食べる」という文化は受け入れたものの、「動物を屠る」という場面には今も蓋をされ、見ることがない。
6歳の私の息子は大人のそばにより、屠り方を覚えようとじっと見ている。
自分の子供は、放牧民族の子供でもあるのだと改めて感じる。
放牧民族であるコサ族は、家畜が生まれてくるところから始まり、世話をする。
毎日、毎日世話をする家畜は、彼らの財産でもある。
そんな家畜を屠りいただく時、彼らは感謝を忘れない。
その証拠に誰一人として肉を残すことはないのだ。
村中の犬が儀式に集まり、そのおこぼれを頂こうと、そわそわしている。
こうして絞められた家畜は骨まで大切に食べられるのだ。
ママたちの青空キッチンから続く長蛇の列。
料理が一人一人の手に渡っていく。
夕方になり、儀式をクールダウンしてくれるかのように夕立が降った。
その後、再び晴れ間が広がり、ふと空を見上げると儀式を祝福しているかのように虹がかかっていた。
ご先祖様と、たくさんの人に祝われて、オドワは無事成人した。
でもそれはこの日から成人したというのではなく、この日から成人へ向けての一歩を歩きだしただけに過ぎないのだ。