ナイロビという名の二つの小説!独立前後のケニアを知る語り部たち!

「賢い老人はたとえ腰かけていようとも、若人(わこうど)が木に登っても見えないものが見える」という諺(ことわざ)がある。

今では国際都市として注目を集めるほど開発が進んだナイロビだが、ほんの数十年前までは森に囲まれ、狩りができるほど豊かな自然が残っていた時代があった。

今では考えられないが、職に溢れ、物価も安く、住民が安定した生活を送ることができる環境があった。過去、そして現在の変化を眺めてきた老人たちに当時のナイロビについて聞いた時、彼らは静かに口を開き、歴史を語り継いでくれた。

土地1エーカーが300シリング、ナイロビで狩りが出来た時代!

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写真:タクシー運転手として長年ナイロビを見つめ続けてきたジェームズ・ロウェロ氏。

過去40年以上に渡りナイロビでタクシー運転手をしてきたジェームス・ロウェロに話を聞いたとき、最も驚かされたのは物価の違いだった。客商売を生業(なりわい)とし、物価の動きに人一倍敏感なジェームスが語るナイロビは現在のものとは似ても似つかない。

「1960年頃にナイロビ西部で生まれました。そこはナイロビで最も古い地区の一つです。昔のナイロビは今とは全然違って人もあまり住んでおらず、当時は牛乳とパンを買っても1シリング(現在では約1.1円)払えばおつりがきました。

当時はナイロビの多くの土地が森で、ドンホルム(現在新興中間層の居住地区)だけは開発が進んでいた覚えがあります。よく友人とアンテロープやウサギを狩っていましたよ。

当時は捨て値で土地を売買していて、1エーカーで300シリング(約330円)なんて値段でした。それが今では百万シリング以上にまでなっている。1978年に多くの土地で開発が始まり、それから土地の値段が急に上がるようになったんですね」

1963年に英国から独立後、ナイロビではしばらくの間、職を探せばあちこちにある状況が続いていたという。

「当時は簡単に職にありつける時代だった。一度職探しに家を出たら、何かしらの職にありつくまで家族は家に帰ってくるのを許してくれなかったほどです。今は悲しいことですが、職を得るのが難しくなり、資格よりもコネが重視されているように感じます。

当時は会社も十分な人手を確保するのに苦労して子供まで雇っていましたね。学歴もあまり意味がなかったので、勉強したい人だけ高等教育を受けていたんじゃないかな。

今じゃ人生が随分と難しくなった。若者は複数の仕事をやらないと生活できなくなったし、私がやっているタクシーの仕事もウーバー(アメリカ発の自動車配車サービス)が広まったせいで稼ぎが悪くなった。不正が増え、仕事を得るのも大海に爪楊枝(つまようじ)を落とすくらい難しくなった」

83歳の老人が語る『古き良き時代』

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写真:現在83歳になるマーティン・オワラ氏。働いていることもあり今も健康に生活しているという。

ケニア独立以前より白人が経営する農場で働き、その後鉄道局に勤務したマーティン・オワラは、今では曽祖父となった。

「1935年にウガンダとの国境に近いケニア西部のイホンジェという村で生まれました。村での生活が息苦しくなって、いっちょナイロビで運試しをしようと思ったんだ。

初めて得た職はカレン・ブリクセン(20世紀のデンマークを代表する作家で、現在ケニアに記念館がある)が残した農場で作業夫をして、その後東アフリカ鉄道局で働くようになった。

15歳の時にダルエスサラームに異動、その後独立に伴いタンザニアからケニアに戻ってきた。当時のナイロビは家が少なくてね。確か初任給が76シリングだったかな、それでも物価が安かったから十分な額だったんだよ。家賃も5シリングから15シリング程度、快適なものだったさ」

現在83歳になるマーティンはナイロビに移り住んでから長くコロゴチョスラムに住んでいる。当時は多くの物が無料で手に入り、食べ物も豊富だったという。

「独立後、ケニア人の手に土地が戻ってきてから、なにやら様子がおかしくなってきた。強欲がこの国を覆ってしまったかのように。少しずつ物価が上がり始め、『部族』間の衝突も増え始めていった。昔はそんなことなかったんだ。」

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