働かざるを得ない男、余生を過ごす男
写真:孫を育てるため懸命に働くジョン・ギシンジ氏。目はほとんど見えていない
カイオレスラムに住むジョン・ギシンジは61歳になった今でも働き続けなければならない。とっくに体にガタがきているが、警備員としての仕事を続けている。
「警備員くらいじゃないと私の歳になってやれる仕事はないよ。目もろくに見えないから誰かが襲ってきても気付かないだろうさ。でもね、働いてお金を稼がないと生きていけないんだよ。3人いる孫達は私の帰りを待っている。食べ物や学費を彼らに与えないといけないからね」
現在でも体に鞭を打ち働くジョンだが、過去には大手飲料企業で働いていた経験を持つ。
「私は1958年にナクルで生まれた。そこで妻と結婚し、二人のこどもに恵まれた。1976年に家族を残してナイロビに出稼ぎに来たんだけど、当時は簡単に仕事にありつけたから、イースト・アフリカン・ブルワリー(ケニアで最も有名なビールブランド『タスカー』を製造する大手飲料企業)で働いていたんだ。
初めて受け取った給料は350シリング(約390円)だったのをよく覚えている。その頃は大金だったんだよ。ナイロビは森に包まれた地域だったが、80年代初頭から急速に建設ラッシュ が始まって、すっかり様変わりしてしまった。自然に囲まれ美しかったナイロビをたまに思い出すよ。
1992年に会社を辞めたが、その後妻と我が子を立て続けに亡くなって、残ったのは3人の孫だけになった。この子達を育て上げるために、まだまだ現役で働くつもりさ」
一方、引退して余生を送るピーター・ムワンギは矍鑠(かくしゃく)とした老人で、外見からは実際の年齢が分かりづらいほどである。
「私は1952年にナイバシャで生まれた。植民地政府の命令で今のムランガ(ケニアの中央部にある都市)に移住させられ、その後はまたナイバシャに移動させられた。
その頃はID(国民証明書)を持っていなかったが、代わりにビッグパスポートと呼ばれるものを使用していた。これが無いと国内でも他の地域に移動することができなかったんだ。
学費を支払えず学校に通うことができなくなったから、1971年にナイロビに移った。何とかサファリツアー職員として就職できたけど、給料は300シリング(約330円)で悪くはなかったね。
当時は1シリングあればシカまでバスに乗れたけど、今では150シリング(約165円)もかかってしまう。
次にバター屋の職を得て、引退する2002年までそこで働いた。1990年の頭から物価が急激に上昇して、多くのケニア人の生活が苦しくなったんだ。
今では月に1万シリング(1万1,000円)稼いでもスラム以外じゃまともな暮らしができないだろう?何とか子供たちが教育を終えるまで学校に行かせられたことを神様に感謝しているよ」
ナイロビという名の二つの小説
ナイロビに来れば職に恵まれ、家賃や食費を差し引いても十分に暮らしていける。
こんなことを今のナイロビ住民が聞けば笑い飛ばしてしまうかもしれない。それくらいここ数十年でナイロビは変化した。
インタビューの中である老人は「ナイロビやケニアの過去と現在を比べることは、同じタイトルで全く別の小説を読むことに似ている」と語った。それら二つの小説を読み終えた老人たちは、過ぎ去った古き良き時代を思いはせることがあるという。
高層ビルの建設が進み、洗練されたショッピングモールが立ち並んだナイロビを、彼らは住み良いとは考えていない。独立後の激動の最中、物価の高騰、就職難、『部族』の衝突、テロといった問題が次々と噴出し、それは未だ解決に至っていない。
過去という小説がある。現在という小説がある。未来という三冊目の小説が喜劇となるか、あるいは悲劇となるか。歴史を知る語り部達は静かにナイロビを見つめている。
・筆者:Mohammed Nyarigi、長谷川 将士
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