ケニアの忘れざる歴史と人生で一番重い握手をした話〜ケニアでWebメディア事業を始めたワケ〜

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私は2016年の6月、ケニアに渡り会社を興しました。現地でWEBメディア事業と調査事業を行うためです。アフリカを現地取材している情報やメディアが少ない現状、この事業が今後ケニアにとって、日本にとって、世界にとって必要なものだという確信があります。この事業をやらなければならないという決意と覚悟があります。

しかし、「なんでそのビジネスをやろうとしているの?」という当たり前の疑問に対して、上手く伝えることができていないという想いもありました。正直、色々な思いがありすぎて、上手く言葉にできないのです。だから、少しだけ自分語りをさせて欲しいと思い、この記事を書くことにしました。

私は元々大学院で開発研究を行っており、専門領域はケニアにおける紛争や市民暴力でした。大学院時代は2007/8年に起こったPEV(Post-Election violence、選挙後暴力)と呼べれる大規模な暴動(国内紛争)の調査のためケニアで現地調査を行い、大学院と大学の合同調査チームの一員として2013年に暴力の被害者側を、そして翌年に個人として加害者側(とされている)の村の全村調査を行いました。

この研究成果は指導教官との共著論文として、書籍にも掲載され、英訳もされました。これは、2013年の合同調査終了後、加害者側村の調査を行うための事前調査を行っていた時の話です。

平和な村の現状、忘れざる歴史

チームのメンバーが帰国する中、私は二人でケニアの農村を歩いていた。傍らにはリサーチパートナーの男がいる。ここら辺で活動しているコミュニティワーカーで、かなりそそっかしい男だが、実直で明るく、頼りになる男だ。

乾いた空気が喉を刺激する中、私は空を仰ぎ見た。よく晴れており、雲は少なかった。この地域の天候は正直だが変化が激しく、雲が出始めると途端に気温が下がり、大量の雨が降り出し、時には雹が降ることもあった。一度雨が降り出すと舗装されていない道路は途端にぬかるみ、まるで底なし沼のようになることもある。私たちはゴム長靴をぺったんぺったんと鳴らし、ひび割れた地面を踏みしめ、汗を流しながら一軒一軒民家を歩き回った。

歩けど歩けど、なんの変哲もない、ケニアの牧歌的な農村が続く。たまに頭上でひばりのような小鳥が鳴き、道行く人は日本から来た異邦人に優しく挨拶をしてくれ、子供たちは「チャイニーズ(中国人)!ハバリ(調子はどう)!?」と、アジアから来た珍客に声をかけてくる。そして、だるまさんが転んだでも遊んでいるかの様に私の後をついてきて、私が振り向くとキャッキャッと逃げ出していった。

実際に現場を歩いても尚、いや、実際に現場を歩いたからこそ、五年前にこの地域で「ケニア史上最悪の悲劇」とまで形容された凄惨な事件が起こったとは信じられなかった。しかし、調査を進めるに連れて、ここで悲劇が起きたことを思い知らされるようになるまで、さほど時間はかからなかった。

消えぬPEVの記憶

調査は難航を極めた。今回の調査は、翌年に予定する対象村Xの調査が果たして可能かどうかを見極めるため、周辺の農村を回って情報を集めるためのものだった。近年の紛争研究ではミクロ家計調査を基にした政治的、経済的、そして社会的な要素を盛り込んだ調査手法が開発されており、同時にその難しさが論点となっていた。

これは少し考えれば分かることで、紛争発生地を練り歩き、情勢が不安定な中で被害者や加害者に対して聞き取り調査を行うという、調査実行者にまで危険が及ぶ可能性が高い手法だからだ。

しかも、定性的な聞き取り調査ならば明らかに危険な者は除外して調査を勧めることができるものの、定量調査では相手が誰であっても、例えばこちらに明らかな敵意や不信があったとしても、対象がその村の住民である限りは調査対象者から除外することはできない。予定する調査は被害者側ではなく加害者側の村で、あまり前例のないことだった。対象村Xは暴動時の加害者が多く居住しているという村だった。

こうした状況下で周辺農村の住民に対する調査を進めたが、厄介事や危険に巻き込まれたくはない村民が多く、あるいは調査そのものに対する高い警戒心によって、口を閉ざす者も少なくはなかった。

ケニアでは一概に調査に対する警戒心が高い、といっていいだろう。これは多くの場合政府や政府よりの公的機関に対する恐れが強いため関わりを持ちたがらず、能動的に調査に協力するものが少ないからだといえる。たとえ調査実施者が政府関係者ではなくても、調査アレルギーとでもいうものが強く影響している。

私とパートナーは住民の不安を和らげ、こちらの目的を明らかにし、調査に協力してくれるように辛抱強く歩き続けた。日本人とケニア人のペアに対する不信や疑念は深かったが、それでも住民が信頼してくれるまで歩き続けることを決心していた。

流した汗の分だけ信頼を得られるのではないかと、パートナーと何度も話しあっていたためだ。その結果、PEVという忘れがたい恐怖をその身に刻みながらも次第に多くの住民が口を開き、助言をしてくれるようになった。彼らに対するは感謝を今でも忘れることはできない。

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